
トリック・オア・トリート!
お菓子をくれないといたずらするぞ!

お!ポシェットさんもハロウィーンに染まってきたね!
キャンディがいい?それともクルミ?(笑)
新大陸に渡ったハロウィーン。
ヨーロッパの風習を取り入れた部分もありますが、ジャック・オー・ランタンなど、アメリカらしく変化させていったものも数多くありました。
今回は「トリック・オア・トリート」やいたずらについてみていきます。
アメリカ大陸に渡ったハロウィーン。現代にも通じるトリック・オア・トリートやいたずらについて
戦争・恐慌と破壊行為になりかけたハロウィーン

アイルランドでは、ハロウィーンには悪ふざけやどんちゃん騒ぎをするという要素がありましたが、それが1900年代のアメリカでよみがえってきたのです。
11月31日は悪ふざけをする若者たちが逮捕されない日となり、町の家々の門扉を外して町の真ん中に積み上げたりしたので「門扉の夜」と呼ぶ地域もあったほどでした。

他にも、ピンポンダッシュや、騒音メーカーを使って不快な音を放ったり、小麦粉入りの靴下を黒いコートの人に投げつけたり、店舗の電気を消したり・・といったいたずらをする若者がいたんだって。

ひえ~。迷惑行為が許される夜なんていやだなぁ。
1920年代には、いたずらの域を超えて、都市部へと広がったハロウィーンは破壊行為へと激化していきました。
窓ガラスを割ったり、歩行者を転ばせたり、火を放ったり。
1933年のアメリカの大恐慌の年には、破壊行為も最悪になり多くの大都市で「ブラック・ハロウィーン」と呼ばれたほどでした。
その内容は、自動車をひっくり返したり、消火栓を開けて町中を水浸しにしたり、警察を徴発したりといったことだったそうです。

戦争や恐慌による社会的ストレスもあったんだろうね・・。
過激ないたずらへの対処法
ここで、迷惑ないたずらを禁止するよりも、効果的な代案がでてきます。
町やキリスト教青年会(YMCA)、ボーイスカウトなどの市民団体が、ハロウィーンを祝うためのパーティやパレード、仮装、カーニバル、コンテスト、芝居などの出し物などを若者たちに提供しました。
学校もハロウィーンの過ごし方を示し、家庭内でおこなうようにすすめました。
このような活動が功を奏し、ハロウィーンの迷惑行為も減っていきました。

すごい!禁止よりもポジティブな活動を若者たちに与えたんだね!
これは現代人も見習いたいところだな。
ただ、当時は大恐慌の時代。1920年~30年代初頭にかけては、パーティーをひらく家庭の出費は痛いものだったので、近所の住人の間で資金をプールしておき、「家から家への」パーティーをひらくというアイデアが考え出されました。
このパーティーでは、子どもたちのグループが家を一軒ずつまわり、それぞれの家庭で異なった活動を楽しみました。

よく考えられた催しだね。
・・ん?子どもたちが家を一軒ずつまわるってもしや・・!?
トリック・オア・トリートの誕生
トリック・オア・トリート出現以前の似たような風習
トリック・オア・トリートの出現のまえにも似たような活動はありました。
ニューヨーク市では、1870年代には感謝祭(サンクス・ギビング)の日に、組織された数千名の若者による騒々しい祝祭がおこなわれ、若者たちは褒美としてお金を与えられ、子どもたちも仮装して家々を回って食べ物をねだったとされています。

「ガイ・フォークスの日」というのは、イギリスの国王暗殺未遂事件がきっかけでできた祝日で、たき火の日とも呼ばれているよ。
シリーズ「ハロウィーンの歴史」#1で解説しているから、よかったらみてみてね!
また「ベルスニクリング」というクリスマスの風習があります。アメリカ東部やカナダでおこなわれた風習で、仮装した参加者は家々を回り、小間物類を差し出して食べ物や飲み物と交換しました。
地域によっては、参加者は子どもたちをわざと怖がらせ、いい子にしていたかを尋ねてから食べ物をふるまうとか、仮装を見破れなかったら何かをふるまうといったルールがありました。
トリック・オア・トリートの初出現

「トリック・オア・トリート!」
このフレーズがはじめて現れたのは1927年、カナダ中西部のアルバータ州の新聞記事でした。
いたずら者どもが家々をまわり「トリック・オア・トリート」と迫ったと書かれています。
1930年代にはこのフレーズが、仮装した子どもたちと結びつき、南下していったと考えられています。
とはいえ全国的に広まったのは、配給制度も終わり、キャンディなどの嗜好品が再度いつでも手に入るようになった第二次世界大戦後のことでした。
また、トリック・オア・トリートは定着したものの、ハロウィーンは子どもたちのものであり、大人たちはキャンディを配る程度で、積極的に祝うことはありませんでした。
大人たちのハロウィーン・小売業界の戦略
英国では、ヴィクトリア女王やエドワード7世の繁栄の時代には、子どもたちのハロウィーンパーティーに大人たちが、招待状やら、コスチューム、デコレーションなどあれこれ手出ししていたそうです。
ただ、やはりパーティーの準備は大変なので、それを請け負う企業が20世紀初頭に登場しました。

なんだか現代人の代行サービスみたいだね。
そして、しばらくは子どものパーティーのあとで、大人もお酒を飲みながら集まっていたでしょう。
しかーし、大人のハロウィーンに打撃を与えるある法律がでてきます。
禁酒法と呼ばれる法律です。

禁酒法とポストカード
1919年、合衆国連邦協議会で飲料用のアルコールの製造販売が禁止され、大人の楽しみであるお酒は人目につかない酒場などにおいやられてしまいました。
ここで大人のパーティーは下火になりますが、ハロウィーン自体はひろまっていたので衰退することはなく、違うものが主流になります。
ポストカードです。
ポストカードには、ハロウィーンをイメージしたたくさんの絵柄がデザインされています。
ポストカードのおかげで、ハロウィーンを象徴するキャラクターや動物などが人びとに定着しました。とくに描かれることが多かったのがジャック・オー・ランタンや魔女、黒猫などです。
戦後のハロウィーンの流れ

しかし1940年代、50年代には、ポストカードもすっかり下火となり、小売業界はトリック・オア・トリートを反映させ、キャンディとコスチュームを押し出す方向へむかいます。
コスチュームは、手作りのものから市販のものへと変わっていきました。
キャンディは、1880年代にはじめて生産され、その後1920年代に大量生産ができるようになり、やがて「キャンディコーン」という現代も人気のある円錐形のコーンの粒のようなキャンディがうまれました。

キャンディコーンはクリスマスカラーのものもあるんだって!
どんな味がするんだろう・・!
第二次世界大戦後には、大人たちはリンゴや手作りのスイーツを渡すよりも、個包装のスイーツを渡す方が面倒くさくなくていいと考えるようになり、そこからチョコレートが人気となります。

ハーシーやマーズ、M&Mは今でも有名だよね。
1950年代には、お菓子業界だけでなく、他の企業もハロウィーングッズを作るようになりました。
またトリック・オア・トリートで家々をまわる子どもたちは、ジャック・オー・ランタンのかたちをしたトリート用のバックとノイズメーカーが人気となります。

ノイズメーカーってのは、やかましい音をたてるための道具なので、普段静かにしなさい!って言われている子どもたちにとっては特別なことだったんだね。
現代のハロウィーン
第二次世界大戦後もハロウィーンは変化していきます。
1930年代からはじまったホーンテッドアトラクション産業は、家庭から商業施設までさまざまなものが産み出されました。

ホーンテッドアトラクションっていうのは、オバケ屋敷みたいなものだね。

特に有名なのは、カリフォルニアにあるディズニーランドのホーンテッドマンションで、1969年にオープンしています。
また1997年にはハリウッドのユニバーサルスタジオに「ハロウィーン・ホラー・ナイツ」が登場しました。

たくさんの地域でホーンテッドアトラクションが作られていったんだって。
他にも、家族連れに人気の農業体験やトウモロコシ畑の迷路、干し草遊び、大きなカボチャコンテストといった収穫に関係するイベントにフェイスペインティングやマーケットが合わさったもの、テクノロジーを取り入れたものなどさまざまに変化し続けています。
こうしてハロウィーンは大衆の祝祭、文化になっていったのですね。
おわりに
以上、ハロウィーンの変容やトリック・オア・トリートについてまとめると・・
・いたずら抑止策として、さまざまなイベントなどが生まれた
・トリック・オア・トリートは1927年に初出。その後戦後の市販のお菓子の流通なども追い風になり、浸透していった。
・ホーンテッドアトラクションやイベントが各地でうまれ、商業化も進み、現代のハロウィーンへと変化していった。

ハロウィーンの現代にいたるまでの変化や多様な内容がわかったよ。

次回は、同じアメリカ大陸でも違った変化や受け入れをした中南米についてみていくよ。
参考文献

今回のハロウィーンの歴史シリーズは、こちらの本をかなり参考にさせていただきました。
でもまだまだ書き切れないおもしろい内容がありすぎるので、もっと詳しく知りたい!という方はぜひご覧になってください。
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