【縄文時代の食べ物】メジャーフードと縄文農耕の話

食べ物の歴史
縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

縄文時代の人びとって何を食べていたの?

遮光器インコ<br>
遮光器インコ

縄文時代の人びとは、身の回りでとれるものなら何でも食べていたよ。

だけど縄文時代は長いからね、時期や地域によってさまざまだったんだ。

縄文時代の人びとは、周囲でとれる食べ物なら何でも食べていましたが、そのなかでもより多く食べられていたものがあり、それをメジャーフードと呼びます。

この記事でわかること
・縄文時代のメジャーフードとその他の食べ物
・縄文時代に農耕はあったのか?
 

縄文時代の食にせまっていきましょう!

メジャーフードという考え方

縄文時代は狩猟・採集・漁労を組み合わせた方法で食料をゲットし、利用された食料には多くの種類がありました。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

狩猟・採集・漁労って、山や森で動物をつかまえたり、木の実や植物をとったり、魚や貝をとってきたり・・ってことだね。

遮光器インコ
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ちなみに小林達雄さんが提唱した「縄文カレンダー」というものがあって、その遺跡ごとに作られたりしており、おもしろいよ。

秋田県鹿角市大湯ストーンサークル館の「縄文カレンダー」


全国各地の遺跡からさまざまな食べ物の遺物が見つかり、「食べられるものはなんでも食べた」ともいえるのですが、

量的にみて、イノシシやシカといった陸獣、クリやクルミ、トチやドングリなどの堅果類、そしてサケやタイやスズキといった魚類が多いのです。

このように多用された食料のことをメジャー・フードといいます。

ただ、縄文時代の摂取食料に時期差と地域差があるのも事実で、集落周辺の自然環境にもかなり左右されていました。

遮光器インコ
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地域差、時期差があるよ~!で終わってはおもしろくないので、これからいくつかの遺跡の例をみていくね。

縄文時代の食べ物

それでは、時代を追っていくつかの遺跡の例をみていきましょう。

縄文時代草創期

鹿児島県 黒田遺跡 

・1万3400年前のドングリ類の貯蔵穴が見つかる。
 →直径40cm、深さ25cmの浅い鉢形をしており、内部には炭化した種子がびっしり。
コナラ属の子葉(食用となる黄色い部分)も発見。

宮崎県 王子山遺跡 

・土器にユリ科ネギ属(ノビルやギョウジャニンニク)の一部が付着。
・1万3300年前のナラ類(ミズナラ・コナラ)などの炭化した種実も出土。
・土器についたダイズ属の圧痕も→マメ類も利用。

遮光器インコ
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縄文草創期は、やはり温暖だった九州南部の方が食べ物は多い印象があるね。
九州以外では、長野県のお宮の森遺跡からも、クリが見つかっているよ。

縄文時代早期

青森県 長七谷地遺跡

早期後半の貝塚から
魚介類ハマグリ オオノガイ ヤマトシジミ スズキ クロダイ カツオ
動物ニホンジカ ツキノワグマ キツネ ニホンアシカ  
植物貯蔵穴から炭化したオニグルミ

佐賀県 東名遺跡

東名遺跡は、この時期最大級の貝塚をもつ低地にある遺跡。

植物(堅果類)8割がイチイガシ、1割弱がナラガシワやクヌギ。オニグルミ
 (貯蔵穴から水漬け保存された状態で、1万点以上みつかる!)


遮光器インコ
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堅果類の水漬けは、アク抜きや虫抜き、長期保存のためと考えられているよ!

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

水漬けには湧き水を利用したらしね。
縄文時代の湧き水ってめちゃめちゃ綺麗だろうなぁ。

編みカゴ731点も出土しているので、大型の編みカゴの多くは貯蔵穴内での堅果類の保管に用いられていたと考えられます。

https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1755より
植物スダジイやツルマメの圧痕が土器からみつかる。
動物イノシシとシカが大部分。他にタヌキ ノウサギ アナグマ テン カワウソなど
魚類スズキ ボラ クロダイが全体の6割。

遮光器インコ
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これらの動物は、食用にする部分と毛皮や骨角器の素材にと、余すところなく使われていたよ。

さらに人骨の炭素窒素同位体分析の結果、食料のバランスがgoodだとわかっています。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

すごいじゃないか!栄養バランスがgoodだなんて。

縄文時代前期・中期

青森県 三内丸山遺跡

動物ムササビ ノウサギ リス テン キジ ガンやカモ類 ニホンジカ イノシシ ホンドタヌキ ホンドキツネ カイツブリ アホウドリ ウ ツキノワグマ

貝類シジミ アワビ マガキ イガイ コシダカガンガラ類 アカニシ マツカサガイ シャコ カニ タコ イカ
魚類
マダイ サメ ヒラメ ニシン マダラ ブリ
植物
ゴボウ サルナシ キイチゴ マメ科 ヒョウタン クワ属 コナラ亜属 ブドウ属 トチノキ オニグルミ クリ ニワトコ

このようなさまざまな食べ物が出土しましたが、例えばクルミは地面に掘った貯蔵穴から発見されています。

またニワトコの種子がまとまって見つかっているので、酒造りをしていたのでは?とも考えられています。

三内丸山の人びとは弓矢や槍、釣り針などを使って、動物や魚をとり、縄文ポシェットを使って木の実を拾ったりしていたのでしょう。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

ちなみに、わたしの中からはクルミの殻が半分みつかっているよ。
木の実を拾っていれていたのかな?

千葉県 加曽利貝塚

魚類スズキ ボラ クロダイなど
魚類ハマグリ アサリ オキシジミなど
遮光器インコ
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縄文前期中期の時代は、気候も温暖で安定していて、よくイメージされる縄文の生活ってのが営まれていた時期だね。

縄文時代後期以降

中期と後期の間頃、4.2Kaイベントと呼ばれる、気候の極端な冷涼化がおこります。

気候が冷涼化することによって、海水面が低下し、海岸線は遠ざかっていきました。(縄文海退

生活環境も、食料となっていた動植物の分布の仕方も大きく変化し、食料も減少。

この変化をうけて、関東地方や関東以北では、集落も台地上だけでなく低地へと多様化し、小規模な集落へと分散居住するようになりました。

反対に、西日本では集落と住居数が増加します。

気候の変化にともなって、東日本から西日本へ移り住んだ人びともいたでしょう。 

ここで注目したいのが、水場遺構の発達です。

水場遺構というのは、水さらしの場所のことで、堅果類の皮むき・アク抜き、クズやワラビからデンプンをとることなどがおこなわれました。

例えば、埼玉県の赤城遺跡(約3400~3200年前)では、

長方形の穴から、内部に杭を打った木組みがあり、そこからトチ、クルミなどが出土しました。
隣接する溝から水を引き込む構造になっていました。

西日本では、水場に近いところにドングリなどの堅果類を水漬けにした状態で保存した「低地貯蔵穴」が発達していました。

このような水場遺構は周辺集落の共同の作業場として管理されていたものと考えられています。

ただ興味深いのが、東日本の水場遺構からは、おもにトチやクルミが出土し、ドングリ類はあまり出土しないということがあります。

つまり、この時期の東日本ではドングリ類の利用は極めて少なかったことになり、

このことは西日本と東日本ではメジャー・フードとなった堅果類に差があったことを意味します。

また、山間部では長野県北村遺跡のように、ドングリなどの堅果類に偏った生活をする人びとや、 

北海道の噴火湾沿岸のように、タンパク質を海産大型動物と魚介類に依存し、ドングリ類はほとんど食べずといった偏りのある食生活を送っていた人びともいました。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

縄文時代の人びとはさまざまな工夫をして食べ物をとって、保存して生き延びてきたんだね。

遮光器インコ
遮光器インコ

そうだね。補足すれば、味覚的に足りない甘みとしては、アケビやコクワ(サルナシ)、ヤマブドウといった果実類やハチミツを食べたり、
カミキリムシの幼虫といった昆虫食も
おこなわれていたと考えられているよ。

メジャー・フードの保存方法

四季がはっきりしてからの日本では、メジャー・フードは秋から冬にかけて最も多くなるので、1年中食べていくためにも、保存方法が考え出されました。

例えば、ドングリなどの堅果類は地面に掘った貯蔵穴に入れたり(西日本では穴で水漬け)、カゴなどにいれて住居の棚の上においたりしていました。

ハマグリなどの貝類はいったん煮てから干し貝などの加工食品にしたり、サケやマス、シカやイノシシなども干し魚や干し肉、燻製といった保存食品にし、住居の中や高床式の倉庫にいれたりしたと考えられています。

遮光器インコ
遮光器インコ

イメージが湧きにくいかもしれないけど、現代で言ったら「シカやイノシシのジャーキー」。そして北海道で有名な「サケとば」、「干し貝」みたいな感じだよ。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

食べたい・・。

遮光器インコ
遮光器インコ

もはや、お酒の肴じゃないか・・。

縄文農耕はあったのか?

動植物の管理

メジャー・フードを効率よく得るために、縄文の人びとは利用価値の高い動植物にさまざまな働きかけをしていました。

それは、クリやクルミなどの堅果類を栽培したり、狩猟の時にイヌをおともにしたり、イノシシを飼ったりといったことです。

例えば、縄文時代前期に集落が形成された三内丸山遺跡では、それまでナラ林だったのが、集落の形成とともにクリ林になりました。
そして集落が廃絶すると再びナラ林が復活したというので、三内丸山遺跡の人びとがクリ林を管理していたことがわかります。

遮光器インコ
遮光器インコ

木が大きくなるまでに何年もかかったはず。
縄文の人びとは次の世代のこともちゃんと考えていたんだろうね。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

ところで、植物が育てられていたかどうかって、どうやって調べるの? 

遮光器インコ
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土器を作った時に土に混ざった植物の種のあとが残っているので、それに歯医者で型をとるときに使うシリコンを流し込んで、かたちを調べる圧痕法(レプリカ法)で調べるんだって。よく考えついたよね~。


今のところ、縄文時代には、エゴマ・シソ、そしてダイズ・アズキなどのマメ類、そしてヒエが栽培されたことがわかっています。

マメ類は、縄文中期の中部高地や後期晩期の九州で、またヒエは北海道南部や東北北部で栽培されていました。

長野県伴野原遺跡では、160点のマメ類の圧痕がある土器がみつかっています。

ただし、これらのことを縄文農耕と呼べるかというと、そうでもないらしく・・

縄文時代にどれほど高度な植物管理を行っていたとしても、社会構造に変化がみられないならば、歴史的な位置付けとしてそれを農耕、その社会を農耕社会と考古学研究者は呼ばないだろう。

山田康弘『縄文時代の歴史』

とのこと。

つまり、農耕が始まることによって、階級が発生したり、国家が成立したりといった社会的な現象が縄文時代には起こっていないということから、「縄文農耕」とは言いがたいということだそうです。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

ふ~ん、そうなのかぁ。やっぱり社会がそういう風に変わっていくって、弥生時代の稲作がきてから・・って感じがするねぇ。

遮光器インコ
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ちょっとややこしい話でごめんね。

でもきっと縄文時代の胎土があって弥生時代につながっていくんだろうね。

まとめ

この記事のまとめ
〇食べられるものは何でも食べた縄文時代。そのなかでも量的に多く食べられた堅果類(ドングリ、クリ、クルミなど)や動物(シカ、イノシシ)、魚類(サケ・タイ・スズキ)のことをメジャー・フードと呼ぶ。

〇メジャー・フードは地域差が大きい
〇縄文時代の人びとは貯蔵穴や水漬け、乾燥、燻製など工夫して食べ物を保存していた。
〇縄文時代にも植物の栽培はあったが、そのことによる社会現象がみられないため、「縄文農耕」とはいいがたい。

 
 
縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

縄文時代の人びとは、自然の恵みを工夫して手に入れて保存していたこと、実にさまざまなものを食べていたということ、地域によってもいろいろだったことがわかったよ。

遮光器インコ
遮光器インコ

お読みいただきありがとうございました!

参考文献


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