世界史的に見ても、農耕がはじまると社会は大きく変化するものです。
このことは、世界史的にみても「新石器革命」や「農耕革命」と呼ばれ、紀元前1万年から紀元前8000年頃にシュメール(メソポタミア南部)で起こったのが世界初と言われています。

今回は、稲作が日本にどのような社会変革をもたらしたのか、
というお話をするよ。
日本も稲作が伝わるという外部からのインパクトがあり、広まったことで、社会が変化していきました。
ざっくりいうと、農業生産の余剰がうまれ、社会的な分業がおこり、社会が階層化し、指導者や祭祀者といった有力層があらわれ、クニができ、それが統合していき、国ができた、という変化です。
また稲作とともに、金属器・戦争・儀礼なども持ち込まれ、新たな文化や社会がうまれていきました。
この記事では、稲作が持ち込まれたことによって弥生時代の日本社会がどう変わっていったか、日本の農業革命についてみていきます。
稲作の進展による余剰と分業化
稲作が伝わり広まってからも、弥生時代の食生活はコメだけで成り立っていたわけではなく、畑作や狩猟・漁労などの組み合わせでさまざまなものを食べていました。

もちろん、地域差はあるだろうね。
北海道や沖縄で稲作がはじまるのはまだまだ先の話だから。
とはいえコメはやっぱり美味しいので、人々は稲作に精を出し、灌漑設備の整った水田が増えていくにつれ、コメの生産量は高くなっていきます。
水田を造るとなると、定住しムラをつくっていくようになりました。
稲作は豊作も凶作もありますが、生産の安定性がうまれていくと、凶作にそなえて余った食糧を蓄えておくようになります。これが余剰です。
余剰が生まれると、農業をしなくても生きていける人々が出現します。
農業をしない人たちは、最初は、森林の伐採などに使う大型石斧や稲穂を摘み取る石包丁などの石器を製作する専門集団として現れました。
そのうち石器が下火になると、金属器を生産する専門集団がうまれます。
さらに稲作は大くの人員が必要であるため、集団的な労働を指示したりする指導者タイプの人や、豊穣を自然に祈る祭祀者タイプの人も現れ、余剰の分配の偏りが生じていきました。
このような社会的分業が進むと、だんだん社会は階層化していきます。たくさん富を持っている人と持っていない人、影響力のある人ない人、といった感じです。

このへんは、現代も同じような感じがしないでもないけど・・
社会の階層化は社会のシステムを変えていきます。
富をもつ者・指導者・祭祀者などから次第に首長層と呼ばれる人々が成立してきますが、これらの首長層は、次第に生産や流通を掌握し、政治という分業を成立させ、軍事力をも備えるようになっていきました。
弥生時代の金属器とその影響
稲作とともに渡ってきた金属器。
この金属器も社会にかなり影響を与えています。
金属器は丈夫な鉄と柔らかい青銅に大きく分けられるので、それぞれみていきます。
鉄
農具
水田を造ったり、修復したりするのに使う「鋤(すき)」や春の田起こしの必須アイテム「鍬(くわ)」は弥生時代の初期は木製でした。
弥生中期ころから刃先が鉄になっていき、後期以降に普及します。
鉄が農具に使われることで、農業の生産性がアップしました。
武器
弓矢の矢の先につける鏃(鏃)も石製から鉄のものになっていき殺傷力が上がります。
狩猟にも使われましたが、戦争にも使われました。

実際に戦死者とみられる人骨が弥生時代の遺跡からは多く出土しているよ。
青銅
加工がしやすいが、もろくて壊れやすい青銅はおもに儀礼・祭祀に使われました。
当時の人々は、現代人が想像もつかないくらいに、自然や呪術的なものに畏怖の念を抱いていたでしょうから、ピカピカ光る青銅器は、持つ者の権威を上げることにもなりました。

ピカピカの宝石や高そうな時計などを身につけている人がいたら、「あの人、すごい人かな?」って現代人でも思っちゃうよね。
青銅器は、最初は銅鐸のように稲作の祭りや豊作祈願に使われましたが、次第に、銅鉾(どうほこ)や銅剣といった戦争を主導する象徴のかたちのものになっていきました。
このようにして、金属器は稲作の生産量を上げ、集団内の指導者や祭祀者の軍事力や権威を上げました。

金属器も稲作の浸透と社会の階層化に一役買っていたんだね。
弥生時代の戦争
戦争は稲作とともに、弥生時代に日本に持ち込まれた文化だ、という考え方があります。
弥生時代に戦争がはじまったとする根拠は防御機能を備えた集落と武器が出現したことがあげられます。
弥生時代の集落からは、戦死者と思われる首のない人骨や剣や矢をあびた痕跡のある人骨が数多く発見されており、
中国の『後漢書』倭伝からは、147~188年に日本で戦争があったという記述があります。
環濠集落・高地性集落
環濠集落は弥生時代の早い時期に、北九州から東海地方にまで稲作とセットで広がっていますが、防御的な性格が強い砦のようといった特徴があります。

環濠集落のとある構造と似たようなかたちの構造が、戦国時代の城郭にもみられるんだって。
また米作りは平地の方が向いているのに、高地性集落といって、攻めるのに大変な高い山地などに集落が築かれた例もあります。
例えば香川県の紫雲山遺跡は瀬戸内海を臨む高い場所にありますが、遺跡からは大量の石鏃がみつかっています。
世界的にみても、砦のような防御施設の出現は、農耕社会の成立と対をなすといわれているので、弥生時代日本にももれなく起こった変化であると考えられます。
そして、卑弥呼登場。弥生時代の到達点から古墳時代へ。
社会の階層化により、首長層がうまれ、そうした人物や集団が中心になって、クニが誕生します。
いくつかの小さなクニが統合され、広範囲に及んでいき、高度な組織化を遂げると、国ができます。
中国の文献である『漢書』地理志に、紀元前後頃には100余りの小さなクニが成立しており、前漢に朝貢していたクニもあったという記述があります。
その後『後漢書』倭伝によれば、紀元107年に奴隷160人を後漢の王に献上したことが書かれており、この奴隷というのは戦争で負けた者または犯罪者ではないかと考えられています。
このようにしてクニ同士の戦いが繰り返され、2世紀後半の「倭国大乱」という状態になりました。
そうした状態のなかで登場するのが、『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国に住む卑弥呼の治める「女王国」=「倭国」です。

おお!あの有名人の登場だね!
この倭国は、30ほどの小国から成っており、倭国内には大人・下戸・生口といった身分制度があり、小国ごとに長官・副長官が置かれていたといいます。さらに、軍隊や法律、市場による交易もあり、租税制度による収奪も行われていました。
外交に関しても、列島の小国がそれぞれ独自で行っていたものが、239年に卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得ることにより、日本列島の(一地域の)代表としての外交権を確立したことになります。

意外にも倭国はかなりの機構を備えていたんだね。
このような倭国は、コメ作りを本格的に列島に展開させた、弥生時代の到達点であるとともに、古墳時代の初期のバトンを確実に握りしめているともいえるでしょう。
気候変動との関係
弥生時代の社会の変化は、稲作伝来だけでなく、さまざまな因子が関わっていましたが、そのひとつで大きなものに地球の気候変動があります。
2世紀に入ると、ヨーロッパの気候は寒冷化していき、カスピ海を含む中央アジア内陸部でも乾燥化がおこります。ローマ帝国内でも洪水などがおこり、作物は不作に・・・
一方、東アジアでも洪水や干ばつの頻度が増し、政治的な混乱が中国や朝鮮半島でも起こりました。
これは日本列島でも例外ではなく、寒冷化が進み、耕作地が減っていくなかで、土地や水利をめぐって集落間の抗争が激化していったことが、戦争そして社会の変化につながっていったことがわかります。

127年は、過去2600年間(弥生前期中頃~現代)のなかで最も降水量が多い年だったらしいよ。想像を絶するね。。
おわりに
縄文晩期に水田稲作が日本に伝わったことを契機として、社会の分業化、階層化がおこり、戦争がおこり、クニができ、初期国家がうまれ、古墳時代へと続いていく・・

まさか、こんなダイナミックな変化を起こした犯人が稲作だったとは!!(言い過ぎ?)
もちろん気候などいろいろな因子が複合的に合わさって歴史が作られていくわけなのですが、水田稲作をはじめとする農耕が与えたインパクトがあまりにも大きいことに驚きます。
農耕による社会の大きな変化「新石器革命(農耕革命)」は日本にも起こっていたのです。

食は世の中を変えるパワーをもっていることがわかったよ。
お読みいただきありがとうございました!
参考文献
もっと知りたい!という方はぜひ。
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