【弥生時代の食べ物】日本型食生活の基礎をつくった弥生時代の食生活

食べ物の歴史
縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

弥生時代の人びとは何を食べていたんだろう?

弥生といえば、稲作だから・・お米かな?

遮光器インコ
遮光器インコ

たしかにお米は伝わったけれど、本州全体に伝わるまでに650年もかかったというし、北海道や沖縄は稲作自体していないので、お米だけで生活はできなかったと思うよ!

この記事では、小学生のころから歴史好きのわたしが、弥生時代の食について解説します。

この記事でわかること
1、弥生時代の時代背景~どんな時代?~
2、弥生時代の食べ物
3、弥生時代の食器や調理器具
4、『魏志』倭人伝にみる日本人の食生活
 

弥生時代の食についてきっとイメージがつかめますよ!さっそくいってみましょう。

【時代背景】弥生時代っていつから?どんな時代?

弥生時代は、本格的な水田稲作が九州北部で開始された、今から約3000年前の紀元前10世紀(紀元前1000~紀元前901年)の頃からはじまりました。

そして、前方後円墳が近畿に造られ古墳時代がはじまる紀元後3世紀(201~300年)に終わりをむかえます。

遮光器インコ
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弥生時代は1200年間もあるんだって!

厳密にいえば、専門家の間でも意見がわかれているので断定はできませんが、今回の参考文献『弥生時代の歴史』にはこのように書かれているので、こちらの本にそって考えたいと思います。

大きな弥生時代の指標として、水田稲作をしているかが関わっています。

つまり、稲作をしていない地域は弥生文化はなかったともいえるのです。

弥生時代の食べ物

コメを主食として野菜や豆類、そして魚や海藻といった日本型と呼ばれる食事の祖型ができたのは弥生時代だったといわれています。

とはいえ弥生時代に米が作られるようになったといっても、実際に米を主食に・・というわけにはいきませんでした。
弥生時代にはコメの収量が現代の2割ほどとの算出もあり、貧富の差なく米を食べられるようになったのは、むしろ戦後のことなのです。

実際に弥生時代の人々は、縄文時代のような多様性を引き継ぎながらさまざまなものを食べていました。

稲作

冒頭でも書きましたが、弥生時代=稲作=米食が日本中に広がったというわけではなく、浸透が遅かった東日本では、長らく縄文時代よりの生活をしていました。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

稲作は、北九州北部から西日本、そして東日本へとひろがっていったけれど、かなりの地域差があるってことは忘れちゃいけないね。

遮光器インコ
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縄文晩期に伝わった稲作がどのように日本に広がっていったのか、知りたい方はこちらも読んでみてください!

稲作がおこなわれた地域では、弥生時代を通して農具の改良や灌漑設備の発展など水田稲作の技術は向上していきました。

酒も一種のコメの加工法であり、稲作とともに日本にもたらされた可能性もあります。

古代の酒造りは、口噛み酒が一般的に考えられていますが、

稲作が日本に伝わった頃、中国ではすでにコウジを利用した酒造りがおこなわれていたので、コウジを使った酒を造る技術も伝わったという説もあります。

遮光器インコ
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口噛み酒とは、コメを口の中で噛んで唾液とまぜたものを吐き出して発酵させた飲み物だよ。
映画『君の名は。』でも登場していたね。



粟・キビ・ヒエ・大麦・小麦・豆(大豆・小豆)・そば・果物

真桑瓜・瓢(ひさご)・大根(おおね)・青菜・ニラ・蒜(ひる)など

さまざまなものが栽培されていました。

稲作の伝来と同じように、中国の長江方面からウリやモモが伝わり、朝鮮半島経由で、ある種の大麦・小豆が伝わったとも考えられています。

狩猟・採集・漁労

イノシシ・シカがもっとも多く、ウサギ・サル・クマ・鳥類などを狩って食べていました。

また、縄文時代のように、ドングリなどの木の実や野草も利用されていたでしょう。

海の幸も、貝類・鯛・かつお・あわび・かに・フナ・コイ・海藻類などさまざまな魚介類が食べられました。

調味料・保存食品

塩味

「比之保」(ひしお)といって、魚や肉、穀物、野菜を塩で漬け込んだ保存食品がつくられていました。この肉や野菜を塩に漬け込んでおくと、塩のもつ浸透圧の作用で、浸出液がでてくるので、その風味のついた液体も調味料として使用されていたと考えられています。

甘味

飴・蜜・乾燥果実・果汁など

香辛料

はじかみ・からし菜・など

家畜

犬・豚・にわとり・牛・馬などが飼われるようになりましたが、運搬や狩猟の友にもなり、全て食べるためではありませんでした。

弥生時代の食生活と調理

土器・調理器具

弥生時代の土器は「壺・甕・高坏・鉢」の4点セットが基本です。

壺・・・穀類の貯蔵用
蓋付きの甕(かめ)・・・煮炊き用
高坏と鉢・・・盛り付ける食器

として用いられることが多かったようです。

米を脱穀する際は、竪臼と竪杵が使われました。
この方法は籾殻だけではなく、米ぬかのある程度はこそげ落ちてしまうので、歩留まりが95%ほどになります。
そのままの玄米ほど吸水率や消化の悪さもなく、精白米のようにビタミンB1が失われ、脚気のリスクにさらされる心配もないというなかなか優れた方法でした。

こうして脱穀された米は、粥などに調理されたと考えられています。

『三国志』のなかの『魏志』倭人伝にみる食生活

『三国志』のなかの『魏志』倭人伝には、弥生時代日本の食生活についての貴重な記述が残っています。

「高坏にコメなどの飯を盛り付けて、手づかみで食べていた」
「対馬には良田がなく、海の物を食べて自活している」
「壱岐にはやや田地があり、田を耕せども食べるのには足りない」
「松浦では好んで魚を捕まえている」
「服喪中は肉を食べない」
「好んで潜って魚や貝類をとって・・冬や夏に生野菜を食べる」
「酒をたしなむ」
「死者を悼むさいも歌って踊って酒を飲む」

など多くの記述があります。

沿岸部の記述が多いということや地域差が大きいという注意点もありますが、田んぼを耕し、魚を好み、野菜を食べ、酒を飲んでいた、ということがわかります。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

日本ではまだ文字の記録がないので、貴重な記述だよね~。

おわりに

弥生時代は、稲作が伝わり徐々に広まっていきましたが、食事に占める米の割合はそれほど多くはなく、畑作や狩猟・漁業などさまざまな食べ物を組み合わせて生活が営まれていました。

また、食べ物に米が加わることにより、日本型の食生活の祖型ができた時代でもありました。

この記事のまとめ
1、弥生時代は1200年間もあり、ゆっくり時間をかけて稲作が伝わっていった。
2、米作りもはじまるが、縄文時代のようにさまざまな食べ物を組み合わせて生活していた。
3、「壺・甕・高坏・鉢」の基本4点セットで、調理や盛り付け、貯蔵をしていた。
4、『魏志』倭人伝によると、田んぼを耕し、魚を好み、野菜を食べ、酒を飲んでいた。
 
遮光器インコ
遮光器インコ

弥生時代の人びとは、稲作もはじめつつ、身の回りにあるさまざまな食物を食べていたんだね。

縄文ポシェットさん
縄文ポシェットさん

お読みいただきありがとうございました!

参考文献

もっと詳しく知りたい!という方はぜひチェックしてみてください。

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