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弥生時代・日本に米作りがひろがるまで650年かかった!?~米作りのはじまりと拡散~

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縄文ポシェット

弥生時代といえば稲作だよね?

お米はおいしいから、弥生人もきっとすぐにお米を作り始めたんだろうね。

じつは、縄文時代晩期に九州北部に稲作が伝わってから、関東南部に広がるまで650年もかかったといわれているんだ!

遮光器インコ
縄文ポシェット

え!?えーーーーーー!?650年!?

一昔前までは、弥生時代にはいると比較的スピーディーに稲作が日本列島にひろがったと考えられていました。

しかしそのような説は、近年の研究でくつがえっており、ゆっくり時間をかけて日本の本州に伝わったことがわかっています。  

この記事では、稲作が日本にどのように伝わり、ひろがっていったのか解説します!

お米と日本人の出会いをみていきましょう。

この記事でわかること

  • 弥生時代の時代背景と気候
  • 米作りのはじまりとひろがり
  • 米作りがおこなわれなかった地域

弥生時代は約3000年前からはじまり、気候変動が激しかった

弥生時代はいつからはじまり、どんな気候だったのでしょうか。

弥生時代はいつからいつまで?

弥生時代は、本格的な水田稲作が九州北部で開始された、今から約3000年前の紀元前10世紀(紀元前1000~紀元前901年)の頃からはじまりました。

そして、前方後円墳が近畿に造られ古墳時代がはじまる紀元後3世紀(201~300年)に終わりをむかえます。

遮光器インコ

弥生時代は1200年間もあるんだって!長いね!

厳密にいえば、専門家の間でも意見がわかれているので断定はできませんが、今回の参考文献『弥生時代の歴史』にはこのように書かれているので、こちらの本にそって考えたいと思います。

大きな弥生時代の指標として、水田稲作をしているかが関わっているそうですよ。

弥生時代の気候は?

弥生時代は、冷涼な時期と温暖な時期が繰り返される気候変動が頻繁に起こった時期でした。

参考文献をもとに表にしてみると、以下のようになります。

時期気候できごと
紀元前10世紀冷涼北九州で水田稲作がはじまる
温暖期と冷涼期が交互に
紀元前9世紀
~前8世紀
冷涼戦い・環濠集落の出現
紀元前6世紀温暖水田稲作が西日本全体に広がる
紀元前4世紀弥生時代で最も寒冷水田稲作が北陸と東北北部へ
紀元前3世紀
~前1世紀半
弥生時代で最も温暖
降水量少ない乾燥期
東北の稲作最盛期。倭人が朝鮮半島南部や中国前漢と交流
紀元前1世紀前葉降水量が増える
紀元前1世紀中頃
~紀元後1世紀後半
寒冷と温暖が交互に奴国王や伊都国王が活躍
2世紀初め温暖・冷涼と温暖交互に倭国乱
2世紀終わり頃温暖卑弥呼共立
藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』『日本の先史時代ー旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおすー』をもとに作成

あまりピンとこないかもしれませんが、他の時代と比べても、比較的短期間での変動が大きい時代だったのです。

遮光器インコ

戦争は、稲作と一緒に伝わってきたんだって。弥生時代は気候変動による食料不足や住むところの変化など、社会の混乱もあって変化も加速しただろうね。

米作りはいつから?どこから?どこまで伝わったのか?

玄海町 浜野浦の棚田(現代)

米作りは紀元前10世紀に九州北部からはじまりました。

では九州北部へはどうやって伝わったのでしょう?

米作りはどこから日本にきたのか?

米の原産地は、中国。

長江下流域で7000年くらい前から稲作がはじまったといわれています。

日本がまだ縄文時代だった紀元前15~前13世紀ころに、中国北部から畑作をおこなう人びとが朝鮮半島へやってきました。

このことにより朝鮮半島でもアワ・キビ・コメ・ムギ・マメなどが本格的に栽培されるようになります。そして紀元前12世紀には青銅器をもつ有力者も登場、紀元前11世紀には水田稲作がはじまり、環濠集落をもつ農耕社会が成立しました。

農耕社会が成立すると、身分の差が生じます。有力者とそうでない者との内部矛盾から逃れようとした人びとが海を渡って、日本に稲作をもってきたわけですね。

遮光器インコ

有力者と対立する勢力や地位が低いとされた人々が新天地を目指したんだね。

海をわたってやってきた稲作ですが、またたくまに日本列島全体に広がったわけではありませんでした。伝わるまで650年もかかった地域もあれば、全く伝わらなかった地域もあります。

それでは、これから地域別に稲作の伝播について詳しくみていきますね。

九州北部ーはじめて水田稲作を行った地域ー

稲作が朝鮮半島から伝わった紀元前10世紀

九州北部といっても佐賀県唐津市から福岡市にいたる、玄界灘沿岸地域という限られた地域での話です。

九州北部にもともといた地元の人=在来民は、狩猟・採集・漁労にくわえてアワやキビなどを栽培していたと考えられています。
彼らはおもに、平野部の中流域や上流域といったいろいろな生態系がまじわるところに暮らしていました。

そして朝鮮半島からきた、水田稲作をする人びとやもともと住んでいた在来民が下流域にいき、水田をつくりはじめます。

縄文ポシェット

中流域にいる、もともといた人たちと下流域で稲作をしていた人びとはしばらく住み分けしていたようだね。

何か気になることをしている人たちが住んでるなぁみたいな感覚だったのかな?

もっとも古い水田として有名なのが、福岡市の板付遺跡や野多目遺跡ですが、これらの地域は段丘上の森林を切り拓き、水路を掘削し、洪水で壊れても再び直していることがわかっています。

水田をつくるにあたって、大量の杭や農具を作る必要があったのですが、当時はまだ石器しかなかったそうです。(鉄器があらわれるのは600年後)

彼らは縄文以来使用してきた浅鉢や深鉢といった土器と新しく朝鮮半島から伝わった種籾を貯蔵するための壺を組み合わせて使っていました。

水田稲作がはじまってから100年くらいすると、玄界灘沿岸地域では、環濠集落や有力者が出現し、戦いがはじまるといった変化がおこります。

環濠集落とは、住居群の回りに壕(敵を防ぐために掘った溝や穴)や土塁、柵などをめぐらす集落のことで、日本最古の環濠集落は3世紀に奴国の中心地になる比恵・那珂遺跡群の南西部にあり、紀元前9世紀後半に出現しました。

同じような時期に、上流の板付遺跡にも壕を2重に巡らせた環濠集落が出現し、埋葬の場所や副葬品などから、身分差がうまれていたこともわかっています。

さらに戦いがはじまったことも、糸島市新町遺跡でみつかった日本最古の戦死者(大腿骨にやじりが突き刺さっていた)からわかります。

戦いは、もともと朝鮮半島南部において、水田稲作を行う上で必要な水や土地をめぐる争いを政治的に解決するための手段として生み出されたものである。朝鮮半島南部の水田稲作民が、玄界灘沿岸地域に渡ってきた際、水田稲作のパッケージの中に含まれていたことは間違いない。

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戦いについて藤尾さんはこのようにとらえているよ。稲作と戦いは一緒に日本に持ち込まれたんだね。

たしかに自分達たちの田んぼを護必要があるからね。

九州北部に水田稲作が伝わって100年。この地域では社会が質的に変化し、農耕社会が成立しました。


水田稲作の拡散

水田稲作は250年あまりの間、玄界灘沿岸地域にとどまっていましたが、その後ゆっくりゆっくり約650年かけて拡散していきます。

九州北部から日本列島に拡散していくさまを表にまとめてみました。

いつどこまで
紀元前8世紀終わり頃九州東部・中部、香川以西の瀬戸内沿岸
紀元前7世紀前葉鳥取平野
紀元前7世紀神戸市付近
紀元前6世紀徳島市、奈良盆地
紀元前6世紀中頃伊勢湾沿岸地域
紀元前4世紀(近畿の日本海側から海ルートで)
青森県弘前市、仙台平野、福島県いわき市
紀元前3世紀(伊勢湾沿岸から太平洋ルートで)
中部高地、関東南部
藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』をもとに作成


ゆっくりゆっくりひろがっていったことがわかりますね。

地域によって特徴もあるので、ここから詳しくみていきます。

中国・四国・近畿・東海

中国・四国・近畿・東海地方は、水田稲作が西方からのリレー方式で伝わったとみられています。

違う地域から水田稲作民が移住して伝えたのではなく、縄文時代から続く近隣の集落との交流関係のなかで、バトンを渡すかのように伝わっていきました。

大阪平野

例えば大阪平野には、水田稲作民は讃岐などの中部瀬戸内からやってきました。それは石材の産地から分かっています。

九州の事例と同じように、100~150年の間、キビやアワなどを栽培していたであろう在来民と水田稲作民がすみわけていましたが、次第に定住して水田稲作をしていくようになりました。

徳島平野

庄・蔵本遺跡から紀元前6世紀の水田址と畑址と竪穴住居がみつかっています。この場所は縄文後期から在来民の本拠地だったところなので、在来民が水田稲作や畑作を受け入れたことがわかる遺跡です。

東北北部ー1度取り入れた水田稲作をやめてしまった地域ー

砂沢遺跡

青森県弘前市の砂沢遺跡は、世界でもっとも北の地でみつかった先史時代の水田遺跡です。

九州北部などのように在来民が利用していなかった土地ではなく、縄文後期以降の集落域に接する低地に水田は造られました。

出土品は特徴的で、縄文以来の石器や土器、土偶や土版、独鈷石といったまつりの道具がみつかっていて、弥生的なものは水田を造る技術や種籾を貯蔵する壺など最低限のものを取り入れていたようです。

稲作がおこなわれたのは、12~13年ちょっとの間であり、試験的な水田であった可能性もあり、コメはさまざまな食料のなかのひとつであったと考えられます。

垂柳遺跡

平成4年度 青森県教育委員会『図説ふるさと青森の歴史シリーズ④北の農耕文化の始まり 弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代編』より

もうひとつ、青森県で有名なのが田舎館村の垂柳遺跡です。

砂沢遺跡とはちがって、低湿地を新たに切り拓いた水田で、約300年にわたって稲作がおこなわれました。

土器ももともとあったものに会津や仙台、北海道などの技術を取り入れた道具と東北でもっとも新しいと思われる、しかも喉仏のある土偶がみつかっています。

縄文ポシェット

喉仏があるということは、男性だね。

縄文時代の土偶は基本女性だったから、変化を感じるね。

しかし、温暖・乾燥した気候は終わりをつげ、紀元前1世紀前葉におこった降水量の増加と低温化により、垂柳遺跡は土砂のしたに埋もれ、人びとは稲作をやめてしまいました。

やがて、稲作のみならず穀物栽培をする人すらいなくなり、のちにのべる北海道の文化圏に入ることになります。

中部・関東南部ー本州内で最も稲作を遅くとりいれた地域ー

中部・関東南部では、紀元前3世紀中頃に水田稲作がはじまりますが、それまで縄文晩期からの狩猟採集漁労にくわえて、キビやアワが栽培されていた時期が500年ほどありました。

九州北部から伊勢湾地域かけての地域では、水田稲作がはじまってから農耕社会が成立するまで100~200年かかっているのですが、この地域の特徴は、最初から農耕社会が成立しているということです。

例えば、小田原の中里遺跡では、在来民が利用していなかった場所にむらや水田が造られました。

また男女の土偶がでてきたり、製作時間を短縮した土器づくりがされていたりと弥生的な要素が多くみられるので、おそらく西方からやってきた水田稲作をする人びとが新しいシステムをもってきたと考えられます。

北海道と沖縄~米作りがおこなわれなかった地域~

北海道の続縄文文化

北海道は弥生文化の一番の特徴である水田稲作がみられないこともあり、弥生時代の北海道の文化は「続縄文文化」と呼ばれています。

北海道では、狩猟採集の生活が続いており、ドングリなどの堅果類や魚、肉などさまざまな食料が利用されていました。

縄文時代との違いは、特定の魚類の利用が増えたことで、道央ではサケ類、道南ではヒラメ、道東ではメカジキの骨の出土が多いそうです。

伊達市の有珠モシリ遺跡からは、カジキマウロやオヒョウ、イルカ、クジラ、アザラシなどの大型の魚や海獣をとるための特殊な道具が発見されています。

また、クマをシンボルとしたスプーンやカップのような土器などの道具がみられることも特徴で、海をこえてさまざまな場所との交流がなされていたこともわかっています。

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北海道に米作りが伝わらなかった理由として、北海道は寒いから米作りは無理だったと考えられていたけれど、近年の研究で、稲作をする必要がなかった=狩猟採集で豊かに暮らしていけたとも考えられているんだ。

奄美・沖縄地域の貝塚文化

貝塚文化は、奄美・沖縄地域のサンゴ礁から得られる恵みを利用した文化です。

サンゴ礁にはウニや貝類、色とりどりの魚、ウミガメ、ジュゴンなどが生息しており、なかには食べた痕跡のある40cmを超える大きなシャコ貝がみつかるなどしています。

狩猟もおこなっており、リュウキュウイノシシがもっとも多くとられていました。

また貝塚文化の人びとは、サンゴ礁からとれた独特な貝をもって朝鮮半島や九州、先島諸島などと交易し、コメ、アワ、キビや鉄、絹、鏡、青銅、ガラスなどを得ていました。

弥生時代の米作りのはじまりと拡散まとめ

以上、弥生時代の気候と米作りのはじまりと拡散についてみてきました。

まとめると・・

この記事のまとめ

  • 弥生時代は九州北部に米作りが伝わった頃からはじまる、気候変動の激しい時代だった。
  • 紀元前10世紀に九州北部に伝わった米作りは、ゆっくり時間をかけて、九州→中国・四国・近畿・東海地方へと伝わり、日本海を伝って東北北部、太平洋ルートを通って関東地方へと伝わった。
  • 北海道と奄美・沖縄では米作りをする必要がなかったためか、狩猟採集の生活が続く。
縄文ポシェット

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参考文献

研究史にもふれているので、弥生時代のことがかなり詳しくわかる本です。
気になる方はチェックしてみてください。

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〇平成4年度 青森県教育委員会『図説ふるさと青森の歴史シリーズ④ 北の農耕文化の始まり 弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代編』

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