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パンの歴史〜麦との出会いから現代のパンまでの世界史〜

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縄文ポシェット

パンっていつからあるの?どこで作られたの?昔のパンってどんなのだったんだろう?

この記事では、パンがいつからどこで作られ、今に至るのか説明します。

この記事でわかること

  • パンのおもな材料「麦」との出会い
  • 古代から変わらない、パンの作り方
  • エジプト、ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、大航海時代、産業革命以後のパン
  • パンの色と身分
  • パンの意味するもの

パンの歴史を知れば、いつものパンがちょっと奥深い味わいになるかもしれませんよ。

麦の起源と人類との出会い

世界には、トウモロコシやソバ、米粉のパンなどいろいろなパンがありますが、主流なのは、小麦や大麦、ライ麦など麦の仲間のパンです。

その麦の仲間には古~い古~い歴史があるんです。

麦は、チグリス・ユーフラテス川流域からパレスチナ、エジプトに至る半月状の地帯=肥沃な三日月地帯で起源し、紀元前8000年頃にはすでに栽培化が始まっていたと考えられています。

人類は狩猟採集をして暮らしていた頃から、野生の麦を見つけては食べていました。

野生の麦は熟すと、折れて地面に散らばってしまうので、次第に折れにくいものを選んで栽培するようになります。人類がより収穫しやすいものを選んで交雑するのを繰り返してきた結果、現代の小麦へと繋がっていったのです。

太古の小麦や大麦はパレスチナ、シリア、イラク、トルコ、イランなどの西南アジアの多くの遺跡から出土しています。

小麦の仲間は各地で栽培され農耕社会がはじまり、やがて世界へと広がっていきました。


小麦を粉にして、こねて、焼いたものが、パン

パンを簡潔にいうと「小麦を粉にして、こねて、焼いたもの」ということになります。

これは実は、パンが作られた大昔から変わることがないのです。

古代からのパンの作り方をみていきましょう。

小麦を粉にする

小麦は粉にして食べる必要がありました。なぜかは米と比べるとわかります。

米は、皮が薄く、中身(胚乳)がかたいので、杵でついても皮だけがとれるので大丈夫です。

しかし小麦は、皮がかたく、中身(胚乳)がやわらかいので、つくと粒自体が粉々になってしまいます。

そこでいったん全部を粉にし、ふるいにかけることで、きめの細かい中身の粉の方が下に落ち、皮と中身をわけることができるのです。

粉のままでは食べられないので、水を加えてこねる必要があり、それを焼いたものがパンなんですね。

麦を粉にするには道具が必要です。

ロータリーカーン(回転式)の石臼

かなり古いものに、パレスチナで出土した、旧石器時代終末期(紀元前1万5000年~8500年ころ)の深鉢状の石臼と石杵があります。

次いで、サドルカーンと呼ばれる前後に動かすタイプになり、ロータリーカーンと呼ばれる回転式になっていきます。回転式のものはトルコ東部のウラルトウ(紀元前1270年~前750年)の遺跡から出土しています。

小麦を粉にするのは重労働なので、畜力や奴隷の労働力により粉が挽かれ、水車は紀元前1世紀のギリシャではじまり、4世紀頃から利用が進みました。

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やったことはないけど。小麦ってものすごく硬いらしいね・

パンをこねる~発酵パンと無発酵パン~

パンを一生懸命こねると、生地ができあがりますが、この生地によって、パンの種類は大きく2種類にわかれます。

発酵パンと無発酵パンです。

簡単にいえば、発酵パンはよく私たちが目にする膨らんだパンで、無発酵パンは膨らんでいない平たいパンのことをいいます。どちらのパンを作るかは地域によって特徴があります。

発酵パン

発酵パンのはじまりは今から6000年程前の古代エジプトと考えられています。

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発酵パンは膨らんだパンのことか・・そもそもなぜパンは膨らむの?

パンが膨らむために必要なのが、小麦がふくまれている生地で発酵がおこることです。

小麦粉には、グリアジンとグルテニンという成分が含まれており、水を吸わせ強くこねると弾力を帯びてガムのような物質=グルテンになります。

このグルテンをガスで膨らませると風船ガムのように膨らみますが、ガスを生じさせるのが、酵母菌(イースト菌)です。

グルテンは小麦だけにたくさん含まれているんだ。ライ麦にも少しだけ含まれているので、優しく膨らむらしいよ。

グルテンはガムみたいになって面白いから、よかったら実験してみてね。

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野生の酵母菌は何百種もあり、リンゴ、ブドウなどの果物や、じゃがいもなどにも存在します。

北アフリカでは、現代でもナツメヤシの実をパン生地にいれて自然発酵させているそうです。

世界の無発酵パン

無発酵パンは、肥沃な三日月地帯と南方エジプトや東方の中国で食べられていることが多い、薄く焼いた固めのパンです。

パンを膨らませるグルテンをふくまない種類の麦やトウモロコシ、そば、雑穀から作ることができます。

無発酵パンには、焼く際のプレートの形に地域により違いがあり、平たい板のプレートの上で焼くものに、トルティーヤ、クレープ、中国の餅類があります。

表面が軽くへこんでいる鉄板で焼くものには、インド、パキスタン、ネパール、アフガニスタン、イランなどで食べられているチャパティが代表格。

直火の上にサチ(サージ)という凸面の鉄板をかぶせその上で焼くものに、エジプト、パレスチナ、シリア、トルコ、イラク、イラン、北パキスタンなどで食べられる「ブブス」や、トルコの「ユフカ」、イラクの「タンナワー」があります。

パンを焼く

パンの焼き方は大きくわけて2通りあります。

直火焼き(下方向からの熱)とオーブン(多方向からの熱)です。

直火焼きだと、一方向だけが焦げ、中は生焼けといった難点がありますが、オーブンはふっくらしたパンを焼くことができます。

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ちなみに蒸しパンは西洋にはないらしいよ!

日本や中国などのおもに米を食べる地域では、古くから甑(こしき)などで蒸す文化があるけれど。

西洋で蒸すのはじゃがいもくらいなんだって。

古代エジプトのパン作り

麦のはじまりとパンの作り方をみたところで、ここから古代エジプト、ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、産業革命へとパン作りの歴史をみていきましょう。

紀元前5000年頃から農耕がはじまったとされるエジプトでは、はじめのころは日干しレンガのかまどで、平たい無発酵パンを焼いていましたが、次第にいろいろなパンが生み出されていきます。

ラメセス3世の墓に描かれたパンを焼く人びと

ラメセス3世(紀元前1198~前1166年)の墓に描かれたパン焼きの絵によると、うずまきの菓子や牛、三角、丸、タヌールという壺で焼かれた円錐形などさまざまな形のパンが作られていることがわかります。


古代エジプトの人びとは、おもにサワー種でエンマーコムギのパンを作っていたといわれています。

サワー種とは残し種ともいい、発酵させた生地の一部をとっておくもので、乳酸菌が増えるため酸っぱくなります。

このサワー種で作った酸っぱいエンマーコムギのパンを、古代エジプト人は「キュラティス」といい、常食していたと記録されています。

古代エジプト人が愛した飲み物といえばビールですが、ビールは当初、大麦の麦芽でつくったパンを、水に浸けて発酵させ、その発酵液を漉した液体のことでした。

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ビールは、パンを水につけた液体だったの!?

現代のビールとは似て非なる物だったかもね。

古代ギリシャのパン作り

紀元前4世紀頃の古代ギリシャでは、灰焼きのパンである「エンクリュピアス・アルトス」(「エンクリュピア」)が、アテネの市場でお目にかかれました。

しかし、灰焼きのパンは、灰も一緒に食べてしまうし、消化にも悪いと評判がよくありません。

灰のついていないパンを焼こうと、串に巻く、網焼きをするなどの試行錯誤をしますが、中が生焼けだったり、外側が焦げてしまったりと苦労の連続でした。

あるとき、世紀の発明である?「クリバノス」と呼ばれるドーム状のかぶせ物が登場します。

熱した石の上にパン生地をおき、クリバノスをかぶせることで、

生地に灰が付かず、二重にすれば火力が上がり、水を吸わせると素焼きは蒸気も出すので、しっとりふっくらしたパンができるようになりました。

クリバノスに似たかぶせものである「テストゥ」はローマ人も使い、似たような道具は、20世紀初頭までルーマニアやハンガリーなど各地で使用されていたそうです。

ローマ帝国時代のパン作り

ローマ帝国の時代になると、ギリシャからの移民によりパン作りが伝わりました。

紀元前123年からローマ市民にパンや穀物が配られたり、軍隊にとっても重要な食料だったので、パンの需要が高まっていきます。

パン窯が改良され、より多くのパンが焼ける保温力のある丈夫な石窯になり、全盛期には254軒もの製パン所がありました。

79年に火山の噴火で火山灰に埋もれた街、ポンペイの遺跡にはパン屋のパン窯が残っています。

ポンペイでは、20センチほどのパンを一度に130個も焼けるであろう大きさの窯があったり、8等分できる割パンと呼ばれるパンが作られていたりと、技術的には現代と大差ないほどに発達していたことがわかっています。

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西暦79年より前の時点で、現代と大差ない窯が作られているのがすごいよね。

パンを膨らませるために、コムギの細かいふすまやキビを、3日間発酵させた白ブドウの絞り汁でこね、天日で乾かして作る、古代のドライイーストも使われました。

現代のフランスやスペインのあたりでは、エンマーコムギの酒を製造するさいにできる泡をパン種にしたそうです。

中世ヨーロッパのパン作り

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ヨーロッパの中世とは、5世紀から15世紀ころのことをいい、西ローマ帝国滅亡から、ビザンツ帝国の滅亡あたりまでだよ。日本で言えば、倭の五王が出てきてから、室町時代頃の話だね。

中世ヨーロッパにおいては、農村はパン屋がないので、自宅で焼いていましたが、都市部ではパン屋で買うか、家でこねたパン生地をパン屋で焼いてもらうかの2択でした。

行政上の制約や防火のために一般にはパン窯の所有は限られていたのです。

ただ、都市部でも自宅のストーブや暖炉では簡易的な調理はされており、フォカッチャやパンケーキ(イギリス、オランダ、北ドイツ)、ワッフル(ベルギー)、ゴーフル(フランス)など現代でもお目にかかるパンが特別な日のパンや菓子として親しまれていきました。


パン屋の登場

パン屋について、旧約聖書「エレミヤ書」に、パン屋街から毎日パンをひとつ届けさせたという記述があるので、紀元前6世紀にはエルサレムにパン屋があったと考えられています。

古代ギリシャにも紀元前5世紀頃にパン屋があり、この頃は粉挽きとパン焼きは同じところで行われていました。

時は流れ、中世ではパン屋と粉屋は分業になります。

パン屋がムギを仕入れ、賃金を払って、粉屋に粗挽きでひかせたものをふるいにかけてパンを作っていました。

そのためパン屋と粉屋がもめたり、パン屋のほかにも粉屋、宿屋、近隣の村からの行商人もパンを売り出して、競争がおこったりといざこざは絶えませんでした。 

12~13世紀になるとパン屋も、職人の組合「ツンフト」(インヌング)を作り、領主のお墨付きをもらって権利を守ろうとします。

例えば、ドイツ・ザクセンの中世都市ナウムブルクのパン組合は、1329年に司教がパン屋に許可書を発行し、組合長にはマイスターの称号を与えるなどして機能していました。 

パンの値段は組合で決められ、年に数回現金と現物を司教に納税するきまりです。 

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その現物が「シュトレン」という名前の白いパンで、ドイツを代表するクリスマス菓子になったんだって!

ニュルンベルクでは「パン焼き権」という権利が決められ、将来にわたってそれらの家系にのみパン焼きが認められることになりました。

パン焼き権がないパン職人は、町営のパン釜をかりて、人びとが家でこねてもってきた生地を焼くことしか許されていませんでした。


人びとは畳半分ほどの板にパンを並べ、頭にのせてパン屋まで運んだそうです。

中世ヨーロッパ・パン屋への厳しい処罰

違反したパン屋もこのような刑罰に処せられた

中世ヨーロッパのパン屋は大変でした。

頻繁に抜き打ち検査が行われ、違反すれば罰を受けるという厳しいきまりがあったからです。

検査の内容も、パンの重さは正しいか、火が通っているか、無許可の添加物が入っていないか、適切にひかれた粉か、など多岐にわたります。

罰金で済めばまだましで、パリやロンドンでは、小さすぎたパンを首にかけられ、手足を縛られ、街角でさらし者にされたり、市中引き回しの刑にされたり。

ドイツ、オーストリア、スイスでは、カゴやおりに入れられ、川に頭まですっぽり沈められるといった刑が行われました。

これらの刑は「パン屋の洗礼」とよばれ、1773年まで続き、1784年に全国で廃止されました。


大航海時代のパン

近世イギリス軍のビスケット(参考)

大航海時代に入ると、スペインやポルトガルをはじめとするヨーロッパの人びとが新大陸目指して海に乗り出します。

長い船旅の際に乗組員の大事な食料だったのが、ビスケット(ビスコッチョ、ビスキュイ)です。

本来はラテン語の「二度焼く」にちなむ、1年おいても腐らないパンでした。

「二度焼きパン」は古代ギリシャにも存在したといわれ、現代でもドイツのヴェストファーレン地方には「クナッベルン」と呼ばれる二度焼きパンが伝わっています。

その作り方は、パン釜で水分の多い発酵パンを焼き、焼き上がったパンをフォークで小さくほぐし、それをパン釜の余熱の中に重ならないように入れ、カリカリになるまで焼くというものです。

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大航海時代もこうやって作ったのかもね。

コロンブスも食べたんだろうな。

また、新大陸(アメリカ大陸)から持ち込まれたトウモロコシ、オレンジやアーモンド、香辛料など珍しい食材を使ったパンも登場しますが、ほとんどお金持ちしか食べられませんでした。

産業革命以後のパン

ポンペイ遺跡の時期に完成をみたパン焼きの技術は、ほとんど変わることなく継承されていきました。

それが大きく変化するのは産業革命以降で、農村や僻地では20世紀に入ってからまたは、第二次世界大戦後やそれ以降のところもありました。

人びとは何世紀にもわたって、酵母菌の作り方や残し方は知っていましたが、酵母菌そのものについては知りませんでした。


17世紀のおわり頃、布商人だったアントニ・ファン・レーウェンフックが顕微鏡を作り、ビールの中に酵母を発見し、さらに1858年にルイ・パスツールが発酵と微生物の関係を解明したことで、研究は加速度的に進んでいきました。


そしてアメリカのフライシュマン兄弟が、自然界に存在するイースト菌を人工的に培養した「生イースト」を生み出し、近代的なパン作りがはじまりました。 

しかしこの生イーストは冷蔵しても10日たらずで死んでしまうため、戦争がはじまると、戦地でのパンの需要に応えられない事態がおこります。

そこで開発されたのがドライイーストです。ドライイーストは必要なときに水で戻せばよく、戦地に持ち運ぶことができました。

アントニ・ファン・レーウェンフック
ルイ・パスツール


アメリカにおいても、2度の世界大戦により、自家製パンは作られなくなっていきます。

第一次世界大戦のころは、原料の節約のため工場性のパンの購入を命じられ、第二次世界大戦の際には、パンのビタミンが強化され、他の食べ物も不足していたので、消費が伸び、第二次世界大戦後に兵士が帰還し、軍にパンが売れなくなると一般消費者へと販売が促進されていきました。

パンの製造は機械化が進み、大量生産するために試行錯誤がなされました。

発酵時間やこねる時間が短かかったり、こね方が激しすぎたりすると、風味や香り、食感が失われてしまいます。

そのため、イーストフードやグルテンなどの添加物の使用も進みました。

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工業化が進むまで、パンの材料は古代と大して変わらなかったけれど、この半世紀〜1世紀くらいで大きく変わったのがわかるよね。

パンと身分~白パンと黒パン~

古くから白パンは貴族のパン、黒パンは庶民のパンといわれ、王や貴族は白パンに執着していました。

中世の白パン用の粉は、小麦粉を一度だけ挽き、目の細かいふるいにかけた上質の粉で、

そのふるいに残ったふすまや目の粗い粉、またはエン麦やライ麦で作られた浅黒い色のパンが黒パンでした。

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日本人の「白米が食べたい」と似ているような。

フランク王国のカール大帝が800年頃に、「小麦粉のパンをつくるパン職人を備えおくように」と命じた記録が残っています。

当時民衆は黒パンを焼いており、白パンを焼くには専門の職人が必要でした。


ただ、貴族のようにさまざまな種類の食材が食べられていれば、白いパンでもよかったでしょうが、庶民の食べ物は限られていたため、黒パンを食べて生命維持をしていたといってもよいかもしれません。

全粒粉パン(黒パン)の方が小麦の白パンより、ビタミンBは3倍、鉄分は2倍というように、黒いパンの方が栄養的に優秀ですので、

野菜の不足しがちな寒冷地では、栄養不足を補うために黒パンが食べられてきたという伝統的な知恵にも納得がいきます。

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現代では、白パンと黒パンの間に格差はないけど、黒パンの方が高価になっているので、ある意味逆転しているような気がするね。

パンは分けるもの

12月、子どもたちがワクワクする行事といえばクリスマスですが、聖ニコラウス(サンタクロース)の贈り物のひとつがパンだったという話があります。

とくにヨーロッパ中世は気候も寒冷で、麦の収穫量が現在の10分の1であり、小麦を収穫したとしても、翌年播く分を半分以上とっておかなければならないのに加えて、税負担もありました。

慢性的な食料不足の状態だったため、飢饉の際にはおびただしい数の死者がでたそうです。

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だからパン屋に対しても少しの重さ不足で、すごく厳しい罰がなされたんだね。

食べ物がない状況下でのパンのほどこしは、人びとを餓死から救う徳とみなされていました。

修道院は敷地内に、大規模な穀物庫、粉挽き場、パン焼き場、醸造所などを備え、時代の最先端をいく生産技術を開発し、自給自足経営によって蓄えを増やしていました。

貧者救済のためにパンを分けることにも積極的で、ビール、ワイン、野菜、チーズ、ベーコン、肉をほどこすこともありました。


ただ、年中ほどこしをしても飢饉の年には門前に餓死者があふれたというので、慢性的な食料不足は相当なものだったようです。

日常的なパンのほどこしとは別に、11月1日の万霊節(死者の日)や葬式、死者の命日などの際には盛大なほどこしが行われました。

例えば、オーストリアのクレムス大聖堂では、1765年には2万3881人にパンと肉が、

フランス、プレモントレ修道会創設者の命日では、パン1200個、チーズ400個、ワイン400マースがほどこされたといいます。 

パンは死者との会食であり、わけるべきもの、生きることに直結する命、パンを分かち与えることができる者が一族の長たりえたそうです。

パンは非常に大きな意味のある食べ物だったのですね。

パンと人類の1万年の歴史まとめ

以上、パンと人類の1万年に渡る長い付き合いをみてきました。

まとめると・・・

パンの歴史まとめ

  • 野生の麦をヒトが選んで栽培化
  • 小麦を粉にしてこねて焼いたものがパンというのは、古代も現代も変わらない
  • ローマ帝国時代には現代につながるパン窯が使われていた
  • 中世ヨーロッパは食料事情がよくなかったため、パン屋は厳しく監視された
  • 産業革命後には、パン作りも工業化し大量生産がなされ現代につながる
  • おもに中世ヨーロッパでは、王や貴族は白いパンを求め、庶民は黒いパンを常食し、貧者はパンのほどこしを受けた

日本人にとっても身近で、人気のあるぱんですが、先人たちの試行錯誤があって現代のようなパンが食べられるようになったことがわかりました。

お手軽に食べられちゃうパンですが、手に取ったパンを眺めながら、材料は何かな?昔のパンはどんな味がするんだろう?など思いを馳せながら食べてみてはいかがでしょうか?

参考文献

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